新型コロナウィルス「緊急事態宣言」を前に

昔、都会に電車で行くことになったとき、どの電車に乗ればいいのか、このホームで合っているのか、切符の金額は合っているのか、子どものときの僕は全然わからなくて不安だったことを今でも覚えている。
子供の頃にはちょっと隣町に行くのも、けっこうな冒険だったなと。

今では、日本国内ならどこへ行ってもそんなに不安は覚えない。
さすがに海外に出て、言葉や文化が大きくちがうと、まだまだ緊張したり、不安になる場面も多々あるけれども。

大人になったことできっとたくさんの経験から予測できたり、応用できたりすることが増えているのかもしれないけれど、いつだって新しいことに向かい合うときはどこか不安や緊張がつきまとっていると思う。
同時に好奇心や楽しみも僕は感じているのだが。

 

大きな海をカヤックで漕いでいるとき、海はとても広く目的地までいろんなルートが考えられる。
どのルートを辿ったとしても、最終的に正しかったのかはわからないし決められないのだけれども、漕いでいる間は自分の正しさを信じて漕ぐしかない。

じゃあその自分が信じる軸ってなんなのか。
自分の中の一貫性を保つこと、そして自分を更新していくことにためらいを持たないこと。
その2つかなと僕は思っている。

世界が地球になって、地球が一つだとわかったときに、本来はもっとぼくらの生活に大きな革命を起こしたほうがよかったのかもしれない。
資源は有限で、そして全ては見えていようがいまいが関係してつながっていることを否定することができなくなったからだ。

 

僕はここ数年、気候変動に注目してきたけれども、実際に気候変動という言葉ができたから気候変動が現れたのではなく、日々どこかで何かの影響で起きていたことが象徴化されたに過ぎない。
同じようにこのコロナウィルスの騒動も、言葉によって象徴化し、そして人に想像しやすくなってきている。
あたかも新しく現れたかのように。

確かにコロナウィルスは新種のウィルスなのかもしれない。
けれども、こういった新種のウィルスとの生活は、今に始まったことではない。

人々に見えようが見えまいが、こういう脅威とともに僕らは生きてきていて、そしてこれからも続いていくだろう。
知っていようがいまいが常にリスクを抱えながら生きている。
ただ社会の構造的機能としてそれが見えにくくなっているのも確かだ。

 

このコロナウィルスにかかり、死ぬ人もたくさん出るだろう。
元気な人もたくさんいるだろう。
ただ僕自身このコロナウィルスがきっかけで、たくさんの方がインフルエンザや風邪、そして肺炎で毎年亡くなっているかを知った。コロナウィルスではなく。
そして思いの外に、人は死んでいるのだなと知った。
改めて、人は死ぬのだなと思った。

見えないものが急に見えるようになる。
理解の及ぶものもあれば、及ばないものもある。
受け入れられるものや、受け入れられないものもある。

それはその人自身のそれに対しての向き合い方次第になるのだが、一つだけ言えるのは、世界にそれはすでにあったということだ。

だから僕らが本当に向き合うのは自分自身であって、コロナウィルスや気候変動といった象徴化されたものではない。
もうすでに関係性という連鎖の結果が今だからだ。

つまり、外的な問題は実は自分にはどうしようもないのだ。
そして僕らが向き合うことができるのは内的な問題だけなのだ。
コロナウィルスに関して言えば、コロナウィルスが問題なのではなく、そういった問題に立ち向かうときにある僕らの心持ちが問題なのだ。

 

明日には緊急事態宣言が出されるらしい。

しかし宣言されたことでウイルスがいなくなるわけではない。
僕らが本当に立ち向かうべきなのは、今までの世界とこれから築いていく未来、そして今を生きるということだ。

コロナ以前に戻っても気候変動の問題は変わらない。
経済の仕組みだって変わらない。
それは本当に僕らが望んでいる幸せなのだろうか?

今一度自身が本当に望む世界を夢見てもいいのではないだろうか?

問題を解決するチャンスはいつだって今しかない。
そしていつだって変えられる力を僕もあなたも持っている。
あなたの行動があなたの世界を変えていく。

だから恐れや不安にとらわれず
新しい世界を創造していこう。

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